「んー、いい気持ちっ」
湯舟の中で、思いきり伸びをする。
自然と鼻歌がこぼれ、明るいメロディーが風呂場をやさしく包み込んでいく。靄の中、ぼんやりと夢ごこちになるこの時間が、私は好きだった。
お風呂は檜風呂。床も壁も天井も、すべてが檜でできている。
息を吸い込めば、ほんのり漂う木の香りが心地よい。この檜風呂は、おじいちゃんの趣味だ。
私の祖父は、極道一家――如月家三代目組長、如月大吾(きさらぎ だいご)。
“泣く子も黙る”……と言いたいところだけど、今では孫に甘い、ただの普通のおじいちゃん。
昔は相当尖っていたらしいけど、私の両親が亡くなってから丸くなったと、組の人が言っていた。普段はとても明るくて、ふざけることもしょっちゅう。
本当にこの人が極道の組長なの?って疑いたくなるけど……まあ、そこは目を瞑ろう。そのおじいちゃんの愛娘が、私のお母さん。
身体が弱くて、私を生んですぐに亡くなってしまった。父は一般人だったけど、母と結ばれて極道の世界へ足を踏み入れた。
母は、祖父に反対されて父と駆け落ちしたらしい。
父の性格上、極道の世界では生きていけないと思ったのだろう。 ……まあ、無理もない。父はとても優しい人だったから。それでもしばらくして、母は祖父のことが放っておけずに戻ってきた。
父も一緒に、祖父の元へ戻ったのだ。馴染めないながらも、父は祖父に従い、懸命に働いていたそうだ。
けれど、私が幼い頃――敵対する組との抗争で、私は人質に取られてしまった。
父は命がけで私を守り、そのとき亡くなった……と祖父から聞かされている。私は眠らされていて、何も覚えていない。
組の人に聞いても、みんな口をつぐんでしまう。 子どもながらに、これは聞かない方がいいことなんだと感じ、胸にしまい込んだ。記憶の中の父は、ただただ優しくて、私にたくさんの愛をくれた。
それだけで、私は幸せだった。両親を失ってからは、祖父が親代わりになって私を育ててくれた。
いつも明るく前向きで、私を大きな愛情で包んでくれる。
時には厳しく、時には甘く、人生のアドバイスなんかもしてくれる。 ちょっとふざけすぎるところもあるけど、それも祖父の魅力だと思っている。祖父には、いつかきっと恩返しがしたい。
最近は、よくそう思うようになった。 コンコン、と浴室の扉が叩かれる。きっと、龍だ。
「お嬢、もうそろそろあがらないと。またのぼせますよ」
「わかってる! もうすぐあがる」私は十五歳、高校一年生。
思春期まっただなかの年頃の女の子。 なのに、なんでお風呂に入ってるとき、脱衣所に男がいるのかって? ……まあ、普通じゃないよね。彼は如月家の若頭、神谷龍之介(かみや りゅうのすけ)。
通称、龍。初対面の印象は、まだヤンチャ盛りの金髪ヤンキー。
ちなみに、これは私の感想。今では黒髪の硬派イケメン風に変わり、見た目からは極道なんて想像もつかない。
黙って立っていれば、ナンパされるレベルのイケメンだけど……。
私は正直、どこがいいのかよくわからない。 顔立ちは綺麗だし、スタイルも悪くないとは思うけど。龍が組に入ったのは十八歳のとき。私は十歳だった。
でかいし、目つき悪いし、「なんだこの大男は」って思った記憶がある。そんな彼が、たった二年で若頭に昇進し、今や二十三歳で組の中心人物だ。
組の皆からも信頼されていて、次期組長候補なんて呼ばれている。そしてその彼が、なぜか私から離れようとしない。
もう五年も、ずっとそばにいて私を守ってくれている。……いや、若頭ならもっと他にやることあるよね?
そう言いたくなるけど、おじいちゃんが了承したって言うし、実際仕事してる姿を私はあまり見たことがない。でも、組の人は「龍は相当できる」って言うし、きっと私の知らないところで全部片付けてるのかもしれない。
あのおじいちゃんですら、一目置いているようだった。
普段はふざけてるけど、組のことになると厳しい人だから。そんな祖父が認めるんだから、きっと龍は本当にすごい人なんだろう。
……なんてことを考えていたら、本当にのぼせてきた。
そろそろ上がろうかと思った、そのとき――
お湯の中から、ポコッと泡がひとつ。
え? なに?
次々に泡が生まれ、ボコボコと勢いを増していく。
いや、これ、異常だよね?
まるでマグマみたいに泡が湧き、水しぶきが弾け飛ぶ。
視界はほとんど真っ白。 頭上からもお湯がどっと降ってきて、私は全身びしょ濡れになってしまった。しばらくして泡が引いていき、あたりは静けさを取り戻す。
と同時に、足にぬるっとした感触が触れた。
え? これ……人肌!?
恐る恐る目を開ける。
目の前には、金色の髪。
湯面に肩まで沈めたその人物は、うつむいたまま、ぴくりとも動かない。「き、きゃーーーっ!!」
悲鳴を上げながら、私は湯舟から飛び出した。
「どうされました!」
龍が浴室の扉を勢いよく開け、駆け込んでくる。
「な、なに勝手に入ってきてんのよ!」
龍にパンチを繰り出す。
彼はそれを軽々と受け止めると、もう一方の手でバスタオルを差し出してきた。「申し訳ありません。お嬢の裸は見ておりません」
確かに龍の視線はこちらを向いていない。
バスタオルを受け取り、急いで体に巻く。「お嬢、あいつはいったい……」
湯舟に視線をやりながら、龍が怪訝な顔をする。
「そうだった! あいつ、急にお湯の中から現れたのっ」
さっきは湯気でよく見えなかったけど……。
その人物は湯に浸かりながら、頭を縁にひっかけてすやすやと寝息を立てていた。「いったい……どうなってるの?」
私はまじまじと見つめる。
気持ちよさそうに眠るその人は――なんと、男だった。絶句しながら、呆然と見つめる私に龍がそっと言った。
「お嬢、あとは私が。お嬢は着替えて、外でお待ちください」
龍にうながされ、私は混乱する頭を冷やすように、風呂場をあとにした。
「なんでもない。……それより、デートはどうだったの?」 なんでこんなこと聞くかな。 すぐに後悔した。 本当は聞きたくない。でも、気になる。「少し二人で歩いたあと、お食事して、果歩さんを家まで送ってきました。それだけです」 龍の視線は真っ直ぐに私に向いている。 そこに嘘はないんだとすぐにわかる。 それなのに――「で、どうだったの?」「は?」「感想よ。楽しかったとか、嬉しかったとか、果歩さんが可愛かった、とか……。 いろいろあるでしょ?」 ああ、また余計なことを。 口が勝手に動く。 止まらない。「もしかして、焼いてくれているんですか?」 龍が嬉しそうな顔をする。 なんだか、腹立つ。「そんなんじゃ……ない、わよ」 声はしぼみ、つい目をそらしてしまう。 面倒な子って思われないかな。 私はそっと龍の表情を盗み見る。 ……そこには、照れくさそうにはにかむ龍がいた。「嬉しいです……。お嬢にそんな風に思っていただけるなんて。 それだけで、俺は果報者ですね」 そのまま、私は龍に優しく抱きしめられる。 彼の体温がじんわりと伝わってきて、心が静かに波打った。「こりゃ、こりゃ……わしは邪魔じゃな」 祖父がこそこそと部屋を出て行く気配がした。「ふふっ、親父も本当は私たちに悪いって思っているんですよ。 素直じゃないですけど」 龍の言葉に、私は眉をひそめる。「本当に? そうは思えないんだけど」 二人でくすくすと笑い合う。 龍の腕が緩み、私たちは至近距離で見つめ合う。「流華さん、俺が愛している女性はあなただけです。 何度も言っているとは思いますが……他の女性が入る隙など、ありません」 熱い瞳で見つめられ、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
ヘンリーと別れた私は、家に帰ると真っ直ぐ洗面所へと向かった。 手を洗い、うがいを済ませたとき、ふとテレビの音に気づく。 その音源は、どうやら居間からのようだった。 ふと、私をこんな事態に陥れた張本人の顔が脳裏に浮かぶ。 気づけば、自然と足が居間へ向かっていた。 部屋をそっと覗き込んだ私の目に飛び込んできたのは、新聞を広げながら呑気にあくびをしている祖父の姿だった。 私は小さくため息をつく。「お、流華、お帰り。龍はまだじゃよ」 私に気づいた祖父が、笑顔を向けてくる。 こっちの気持ちも知らないで。「……わかってる」 少しムッとしながら、祖父と机を挟んだ反対側に腰を下ろした。 怒っていることを察してほしくて、わざと乱暴に座る。 だが、祖父は怪訝そうに眉をひそめるだけで、不思議そうな顔をした。「なんじゃ、不機嫌そうに。そんなんじゃ、龍に愛想つかされるぞ」「おじいちゃんに言われたくないわよっ!」 大きな声が部屋中に響く。 さすがの祖父も、驚いて目を丸くした。「な、なんじゃ?」「おじいちゃんのせいでしょ! 私たちずっとうまくいってたのに……めちゃくちゃよ! そんなに私たちの邪魔して、楽しい?」 感情をぶつけるように睨みつけると、祖父の表情が一瞬だけ怯んだように見えた。 しかし、すぐに余裕の笑みへと変わっていく。「ふんっ、これくらいでダメになるようなら、いつかダメになっとるわ。 本当にお互いを信頼していたら、心は揺れん」 痛いところを突かれ、私はぐっと言葉を飲み込む。「そんなの、わかってる。 わかってるけど、不安になるでしょ? 好きであればあるほど、苦しいの! おじいちゃんにはわからないよっ!」 悔しさに駆られ、勢いよく立ち上がった。 振り返り様に誰かに思いっきりぶつかってしまう。「いたっ!」
そのまま迷いのない動きでヘンリーを交わし、何事もなかったかのように私の目の前にやってくる。「なっ……」 ヘンリーは絶句し、相川さんを凝視する。 相川さんは至近距離から私を見下ろし、優しい笑みを浮かべた。 頬に触れながら、熱っぽい瞳を向け、そっと囁く。「僕を、選べばいいのに……。 そうすれば、そんな悲しそうな顔をして一人で泣くことはない。 僕は絶対にあなたを悲しませたりしない。 流華……僕を選べ」 自信に満ちた表情。 口元は笑っているのに、目は鋭く、まるで獲物を捉えるように私を貫く。 その視線から、目を離せなかった。「流華、好きだ」 ゆっくりと相川さんの顔が近づいてくる。 私は彼から逃げようとする。 が、金縛りにあったかのように動けない。「ダメーっ!!」 突然、ヘンリーは相川さんに思いきり体当たりをした。 しかし、相川さんはそれを察知していたかのような素早い動きで身をかわす。 そのとき、はっとし我に返った。「ヘ、ヘンリー?」 戸惑う私を背に庇いながら、ヘンリーがこちらへ顔を向け微笑む。「へへっ、僕が守るって言ったろ?」 なんだかとても誇らしげな表情。 私を守れたことが、よほど嬉しいらしい。「ありがと……」 心からほっとした。 もし邪魔が入らず、あのままだったら――。 不覚! なんであんな状態で固まっちゃうかな、も~! これでは、相川さんの思うつぼだ。 彼の瞳には、人を惑わす力があるのかもしれない。 あの瞳に見つめられると、思考が止まるっていうか、ぼーっとするというか……って、そんな摩訶不思議なこと。 何なの? もうわけがわからない! とにかく、相川さんには気をつけなくちゃ。 ごちゃごちゃする思考を振り払い、集中する。 ヘンリーと並び、相川さ
そこにいたのは、相川真司だった。 意外そうに目を見開き、こちらを見つめている。「おまえ……」 相川さんに気づいたヘンリーが、鋭い眼差しを向けた。 だが、そんな視線など意に介さず、相川さんはニコリと微笑み、ゆっくりと私たちの方へ近づいてくる。「こんなところで何してるんですか? ちょうど流華さんのところへ行こうかと思っていたんです。偶然ですね」 嬉しそうに私を見つめる相川さん。 その視線から守るように、ヘンリーが私の前に立ちはだかった。「今、流華はおまえに会いたくないってさ」 背中越しで顔は見えないが、ヘンリーから珍しい男らしさが漂ってくるのを感じ、驚く。「そうなんですか? それは……彼女の涙と関係あるのかな?」 余裕のある声音で、相川さんが問いかける。 さっき私が泣いていたのを、見られていた?「それとも、龍のせい? だったりして」 核心を突かれ、心臓が痛む。 今この人から逃げたところで、何も変わらない。 ――ちゃんと向き合ったほうがいい。 そう思った私は、覚悟を決め、ヘンリーの背中から抜け出した。 相川さんの前に姿を現すと、彼の目がわずかに見開く。「流華さん……大丈夫ですか? 心配していました」 相変わらずの笑みを向ける彼とは対照的に、私は真面目な顔で問い返す。「なんで心配なんて?」「だって、今日は龍と果歩のデートですから。流華さん、辛いだろうなあと思って」 相川さんは、気持ちを探るような目で見つめてくる。 知ってたんだ……そりゃそうだよね。 果歩さんは妹なんだから、今日のことを知ってて当然。 彼に弱みを見せないよう、まっすぐ見返した。「心配は不要です。私は大丈夫ですから」 少しでも弱みを見せたら、つけこまれる。 ここは平然とした態度を見せないと。「そうだよ! それに、流華には僕がいるから!
私は一人、家へと続く道を歩いていた。 疲れた……。 さすがに、全力疾走はキツかったか。 なんて思いながら、ふと空を見上げる。 もう、陽射しが傾き始めていた。 まっすぐ帰ればいいのに、どうしてもその気になれない。 気づけば、足はいつもの公園へと向かっていた。 変わらない景色、のはずなのに。 夕焼けに染まった公園は、少しだけ寂しく見えた。 たぶん、私の気持ちがそうさせているんだろう。 ギィ……ギィ……。 ブランコのチェーンが軋む音が響く。 その寂しげな音が、今の自分の気持ちと重り――吸い寄せられるように腰掛けた。 龍、今頃どうしてるかな……。 早く会いたいよ。 声が聞きたい。 抱きしめてほしい。 あなたの気持ちが知りたい。 視界がぼやけていく。 気づけば、涙が頬を伝っていた。「流華ーっ!」 ふいに、遠くから声がした。 驚いて顔を上げると、こちらへ向かって駆けてくるヘンリーの姿が見えた。「……っ、どうして……?」 驚いて目を瞬かせる私の前に、ヘンリーがやってきた。 肩で息をしながら、まっすぐに私を見つめてくる。「はあ、はあっ、はあ~。 流華って足早いよねー。僕、普段運動しないから体力なくって」 まだ息があがる中、ヘンリーは私に微笑みかけた。 私のこと、追いかけてきてくれたんだ……。 その想いに、なんだか胸が熱くなる。 ふと、あたりを見回す。 貴子がいない……帰ったのかな?「貴子は?」 ヘンリーを見つめると、彼は後ろを一度振り返ったあと首を捻った。「うーん。僕、流華のことが心配で……夢中で走ってきちゃったから。 桜井さんのことはわからないや」 ヘンリーはニコリと微笑んだあと、もう一つのブランコに腰掛けた。
龍と果歩さんの背中を、何かに取りつかれたようにじーっと見つめる。 お似合いな雰囲気に、私の気持ちはどんどん落ち込んでいく。 もうそりゃ、石ころが坂道を転がっていくみたいに、気持ちがコントロールできない。 肩や腕が少し触れ合うたび、果歩さんは頬を染め、恥ずかしそうに俯いた。 龍も、まんざらでもないような……。 いや、ダメだ、そんな風に疑っては。 自分を戒めるように小さく頭を振った。 物陰に身を潜めながら、慎重に足を進めていく。 龍たちが動けば、私たちも動く。 ふと周囲を見れば、行き交う人々が遠巻きにこちらを訝しげに眺めていた。 そりゃそうだろう。 だって私たち、相当怪しいもん。 ほんと、何やってるんだろう……とさらに落ち込む。 こんなことして。 これって、龍のことを信じていないってことにならない? 龍もこんな気持ちだったの? 私のデートのとき、龍はあとをつけていた。 あのときは、ついカッとなってしまい、叱りつけてしまったけど。 龍の気持ちが今になって痛いほどわかる。 私、なんて酷いことを……。 反省――「流華、何してんの? ちゃんと見てないと見失うわよ」 貴子の声にはっとする。 反省のポーズをとっていた手を下ろし、視線を龍へと戻した。 果歩さんを人混みから守るように、龍は人通りの多い側を歩いていた。 さりげなく周囲に気を配り、彼女が困ることのないように気遣っているように見える。 いつも、私にも当たり前のようにしてくれていたこと。 でも、それは……誰にでもすることだったんだ。「流華、拗ねてる顔も可愛いよ」 ふいに、視界いっぱいにヘンリー――いや、透真くんの整った顔が飛び込んできた。 驚いた私は少し距離を取り、ぎこちなく微笑んだ。「ありがと。ヘンリーも、相変わらず可愛いね」「流華、大好